2022年4月23日土曜日

4月24日 礼拝メッセージ「勝利の確信」

 

「勝利の確信」

  「だれがわたしたちに敵し得ようか。」「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。」「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。」「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。」とたたみかけています。「だれも、何者をも、私たちに敵することはできない、訴えることもできない、罪に定めることも、キリストの愛から離れさせることもできない」という強い表現がこのところに記されているのです。 私たちは、はキリストの復活を通しキリストと共に復活のポジション、圧倒的な勝利者のポジションに置かれていることを聖書は示しています。

●神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

 私たちはかつて神から離れて、自分中心に、神に敵対して、自己中心に歩んでました。しかし神は、私たちが神の敵となって歩んでいた時でさえ私たちを愛してくださり、その敵の救いのために、和解の御手を差し伸べてくださったのです。天の父は、御子イェシュアを通して「自分の敵を愛せよ」と口できれいごとを言わせたのではなく、事実、十字架にかかって、神の敵であった私たちの罪を赦して下さったばかりか、私たちの生涯の味方となってくださったのです。「味方」という言葉は、神自ら私たちの側についてくださっているという意味です。それゆえ、私たちはどんな敵に対しても勝利者とされている保証があるのです。

●惜しみなくひとり子さえも与えて下った神様の愛

  「無制限の恵み」です。私たちは神から最も必要な最善の賜物として聖霊をいただいています。聖霊はすべての領域における「助け主」です。聖霊の助けによって、私たちに敵対する者に対して、絶えず勝ち得て余りある人生、すべてが益とされる感謝の人生を送ることができるようにしてくださるのです。今回、私たちはひとりひとりが、「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう・・。主は、私を助けてくださる私の味方」(詩篇 118:6~7)であることを大胆に宣言して、主に信頼する者となりたいものです。

●訴えるものからの勝利

黙示録12:10-11「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

悪魔は私たちを責め立てる者たちなのです。 たった一つ悪魔に立ち向かうことのできる方法はイエス様の血によるものなのです。 私たちの無実さや、業績、良い行いによって悪魔を訴えるならば私たちは失敗に終わってしまいます。 神の御前では、私たちのために犠牲となり、血を流してくださった神の子羊であるイエス様に、より頼むときにおいてのみ、私たちの申し立てが成功するのです。

もし敵が攻撃して来るなら、 敵に対し、私たちは子羊の血と、 私たちのあかしのことばによって打ち勝つことができるのです。 私たちはイエスの流された血によってあらゆる悪に対して勝利を得ることができるのです。


2022年4月16日土曜日

4月17日 復活祭礼拝メッセージ 「復活の勝利」


  【復活の勝利】


 “イエスは言われた。「わたしは、よみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」”〈ヨハネ福音11:25〉

聖書は、キリストによる『死にさえも勝利できる命の道』を教えています。死にさえも勝利できる、そんな不可能が可能になるグッドニュースが書かれいます。  

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。』

 「初穂の祭り」は、ユダヤ人がカナンの地に入り穀物の収穫を祝い、土地の呪いを祝福に替えた神様の御業を記念し祝う日です。初穂の祭りの日にキリストはよみがえりました、「わたしがよみがえりの初穂ですよ!」と、「やがて、主を信じる者たちは死んでも生きます!永遠のいのちが与えられます!」という事を表すために、イエスさまは過越の祭の日を選んで十字架にかかり、「初穂の祭の日」によみがえって下さったのです。

 有名なアメージング・グレースという曲の“驚くばかりの恵み”とは、このイエスキリストの十字架の死と復活による救いである、グットニュースの事を歌っています。

「罪の中で死んでいた私のような者さえ、神は罪を赦し、ただ恵みによって救ってくださった。私は神に愛されている。本当に驚くばかりの恵みである。」

“というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。”〈Ⅰコリント15:21.22〉

 最初の人アダムひとりを通して罪と死が入ったので、ただひとりの主イエスキリストを信じる恵みによって、すべての人は救われるのです。

 創世記に、神が最初の人アダムにいのちの息を吹き込まれたので、人は生き者となったと書いてあるように、最後のアダム・イエスキリストは、私達人類に復活のいのちを与えることのできる生かす御霊となったのです。最後のアダムであるイエスキリストだけが、新しい命の息吹を私たちに与えることができるのです。

 黙示録には、このように書かれています。“また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。…もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。”〈黙示録21:1.4〉

 たとえこの天と地が滅びても、イエスキリストを信じる者は、死者の中から復活し、神とイエスキリストが共におられる、愛と平和と祝福に満ちた永遠の御国である、新しい天と地に住む日が来ます。


2022年4月15日金曜日

2022年4月10日 礼拝メッセージ「世界を変えるとりなしの祈り」


 ルカによる福音書23:34「父よ彼らを赦してください。彼らは、自分は何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるためにくじを引いた」

 今週の金曜日はイエス様が十字架におかかかりになった受難日です。朝9時に、手足を釘で打たれ茨の冠をかぶせられ、人々から罵られあざ笑われて十字架のつけられたイエス様が一番始めに叫ばれたことばは、この取りなしの祈りでした。

 私たちの罪・病・呪いをその身に負われ、十字架で命を捧げられ、死んで蘇られて

救いの道を開かれたイエス様は、今なお、天の父なる神の右の座について、私たちのために

とりなし祈っておられます。

 「誰が私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いよよみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座につき、しかも私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ人への手紙8:34)

 

2022年4月2日土曜日

4月3日礼拝メッセージ「安心して行きなさい」

 


メッセージ「 安心して行きなさい 」

  

 ●衣の房

 12年間も長血を患って、医者にもひどい目に遭わされ、財産もなくなり

治るどころかますます悪化していく状況の女性、当時、血が止まらない病は、汚れた者とされ、人々から忌み嫌われました。彼女がさわった物や彼女が座った椅子さえ汚れた物とされ、人々は彼女から汚れを受けないように、彼女に近づくことを皆避けていたのです。しかし、彼女には一つの希望がありました。「衣の房」に触れば、必ず癒やされるという希望です。衣の房には613の結ぶ目があり、それは主の約束を象徴しているものでした。

「衣の房」に触れることは、みことばの約束をつかむことを象徴していました。

*マタイの福音書14章34~36節

34 それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。

35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、

36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。


●あなたの信仰があなたをいやした。安心していきなさい。

 12年間、汚れた者として存在を否定し、「汚れた者」と人々との接触を避けていたこの女性に「あなたの信仰があなたをいやした」とイエス様は

大勢の人々の中から、一人の女性の人格、心の内側を認め受け入れました。主の癒やしの力は彼女の内側からあふれ出ました。「安心して行きなさい」

  これまでの12年間のつらい日々は、イエス様に会うためのものでした。

イエス様は「安心して行きなさい」と私たち一人一人にも語りかけてくださっています。


スポルジョンのことば

私たちは彼の愛の高さ深さを十分に知ってはいない。しかし次のことを確実に知っている。キリストはふるえる魂から、その魂が得た賜物を取り去るようなことはされないと。しかし、注目すべきことは、彼女の知識はなきに等しかったが、彼女の信仰は真のものであったがゆえに、彼女をただちに救ったことである。そこに遅延はいささかもなく、信仰による奇跡は即時的である。もし私たちに一粒のからし種ほどの信仰があれば、救いは私たちの現在の、また水遠の所有となる。…うしろからでも主のみ衣の房にさわり得るならば、私たちは全きものとされる。臆する者よ、勇気を出せ。あなたの信仰があなたを救った。安んじて行け。「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」


3月27日礼拝メッセージ「イエスは主なり」

 


メッセージ「 イエスは主なり 」

  

 「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9~11)

  

  初代教会において「イエスが主」であると告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。つまり、「イエスは主である」との告白は、殉教覚悟の告白を意味したのです。

 ですから、使徒パウロは「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と告白することはできません。」(1コリント12:3)と言ったのです。また、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)とも言っています。

 ヨハネの黙示録においては、すべての被造物が小羊なるキリストに対して、「主の主、王の王」として礼拝しているのをヨハネは見ました。復活したイエスは、「主」とは別に、「イエスの御名」という「すべてにまさる名」として最高の称号も与えられています。


  私たちがイエス・キリストを「主」と告白することは、「私はキリストの僕である。キリストの奴隷である。私は、私の主であるキリストの御心を行なうことのみを求める」を意味している

 私たちは自分のものではない。主のものである。どこで生まれるのか、どのように自分の人生を送るのか、どのような人生が与えられるのか、それらはすべて主なる神が導いてくださることである。

 奴隷にはそれを選んだり要求したりする権利は何もない。権利は主イエス・キリストのみにある。私たちは、私たちの主であるキリストの命令に喜んで従う。それが良いしもべであり、良い奴隷である。だから、「イエスは私の主です」と告白するとき、「イエスはヤハウェである」と告白しているが、実生活において考えるなら、「私たちはキリストの奴隷です」ということを告白しているのです。

 キリストのしもべ或いは奴隷として、私たちは主イエスの意志と御国のために生きる者です。そして、しもべは、命令を受ける立場、主人の命令に従うことを喜びとします。