2022年4月2日土曜日

3月27日礼拝メッセージ「イエスは主なり」

 


メッセージ「 イエスは主なり 」

  

 「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9~11)

  

  初代教会において「イエスが主」であると告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。つまり、「イエスは主である」との告白は、殉教覚悟の告白を意味したのです。

 ですから、使徒パウロは「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と告白することはできません。」(1コリント12:3)と言ったのです。また、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)とも言っています。

 ヨハネの黙示録においては、すべての被造物が小羊なるキリストに対して、「主の主、王の王」として礼拝しているのをヨハネは見ました。復活したイエスは、「主」とは別に、「イエスの御名」という「すべてにまさる名」として最高の称号も与えられています。


  私たちがイエス・キリストを「主」と告白することは、「私はキリストの僕である。キリストの奴隷である。私は、私の主であるキリストの御心を行なうことのみを求める」を意味している

 私たちは自分のものではない。主のものである。どこで生まれるのか、どのように自分の人生を送るのか、どのような人生が与えられるのか、それらはすべて主なる神が導いてくださることである。

 奴隷にはそれを選んだり要求したりする権利は何もない。権利は主イエス・キリストのみにある。私たちは、私たちの主であるキリストの命令に喜んで従う。それが良いしもべであり、良い奴隷である。だから、「イエスは私の主です」と告白するとき、「イエスはヤハウェである」と告白しているが、実生活において考えるなら、「私たちはキリストの奴隷です」ということを告白しているのです。

 キリストのしもべ或いは奴隷として、私たちは主イエスの意志と御国のために生きる者です。そして、しもべは、命令を受ける立場、主人の命令に従うことを喜びとします。

 


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