2021年12月31日金曜日

2022年1月2日礼拝メッセージ「こうしてすべての者が神の救いを見る」



 2022年 あけましておめでとうございます。

新しい年が始まりました。主の守りと祝福が一人一人に豊かにありますようにお祈りしています。

   これからの1年、どのようなことがあるでしょうか。あまりにも大きくてとうてい持ち上げることもできないような薪の巨大な束であっても、神様は一度にすべてを運ぶようには求めておられません。主は心優しく憐れみ深いので、薪の束をほどき、まず一本を与えてくださいます。それを私たちは今日運びます。そしてまた一本を明日運び、そうやって毎日一本ずつ運んで行きます。その日に定められた重荷を運ぶだけです。運ぶようにと言われる前に明日の重荷をさらに加えることはしなくていいのです。

  マタイ6:34「 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配しま す。労苦はその日その日に、十分あります。」


 今年与えられている御言葉です。

励まし:「主の通られる道をまっすぐにせよ」(ルカ3:4)

主の約束:「こうしてすべての者が神の救いを見る」(ルカ3:6)


 イエス様ご自身がこの地上に来られる前に、神に会う備えとして、バプテスマのヨハネを通して人々を悔い改めに導きました。『 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。』と記されています。

 ここから2つのメッセージです。

1)主からの励ましです。

 私たちは主が通られる道を備えるというすばらしい働きに預かっています。

 「風(聖霊)は思いのままに吹く」(ヨハネによる福音書3章8節)のように、主は人格をもっておられるので、主の霊(風)は吹きやすいところで大いに働かれます。

 主の通られる道(=主の働き安いところ)は

 ①すべての谷が埋め尽くされるところ

 「神が私を愛しておられる」と信じる時、落ち込みがあっても人生の谷間から引き上げ てくださいます。

 ②「すべての山や丘は低くなる」

 高ぶり(傲慢)を捨てて、イエス様がへりくだって仕えられたように、

 職場で家庭で遣わされた場所で、へりくだって執り成し祈り続けることです。


マタイ10:27「  あなたがたの間でいちばんになりたい者はだれでも、仕える者となりなさい。人の子も仕えるために来たのだ」

ローマ8:39「 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。  」


 主の愛を信じ、日々へりくだって仕え、主を喜ぶことの日々の積み重ねは、主の通られる道の備えとなっています。


2)主の約束「すべての人が神の救いを見る」が実現していくことに繋がっていきます。


  ①すべての人の神の救いを見る

 いろいろな困難な課題の渦中にいる人々がいます。家族の事、病気の事、将来の事等など。問題を抱えて困っている人に解決(救い)が与えられることは切実な願いです。

 聖書は、すべての人が「救い」を必要としていることを語っています。

まったく順調に人生を謳歌している人でさえ、救われる必要があるというのです。人間は生まれながらに罪を持っています。(これを『原罪』とよびます。)聖書のいう「罪」は、単に法律を犯すことを意味しません。たとえ法律では罪に定められなくても、人を憎んだり、ねたんだり、欺いたりする心を、聖書は「罪」と言っているのです。神様は聖なるお方で、どんな罪とも共存することができないのです。心から「罪」が赦されて拭い去られるとき、人は神様と共に生きることができ、そのとき初めて、人生の本当の喜びと平安を体験するのです。それが聖書のいう「救い」なのです。 


 神様は、人間を救うために人の姿となって地上に来られました。それがイエス・キリストです。一点の罪も持たない神であるイエスが、人間に代わって罰を受けることによって、人間の罪をとりのぞくことが可能となったのです。人はただ、イエス・キリストを神、救い主と信じ、告白することによって無償で救いを受けることができるようになったのです。

この「救い」は特定の人々だけでなく、「全ての人」のものです。

 「すべての人が神の救いを見る」(ルカ3:6)

 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ヨエル3:5 使徒2:21)

「実にすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです」(テトス2:11)

 イエス・キリストを神、救い主と信じ、告白し、神様の御名を呼ぶことによって、誰でも救いを体験することができるのです。


②救いの完成:キリストの似姿に造り替えられ続ける

  コリント第二3:18「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 イエス・キリストを心に迎え、新しく生まれたとき、わたしたちはもはや自分の命によってではなく、キリストのいのちで生きることを実感します。自分を通して、キリストが今を生きてくださる!そのことを体験します。さまざまな試練を通ることがあっても、自然に、「このようなとき、イエス様ならどうされるだろうか?」と考えるようになります。

 そのような経験を積み重ねていくことによって、次第にキリストの品性を身に着けていくようになるのです。クリスチャンとはキリストに似た者という意味です。これがキリストの十字架の救いの究極の目的なのです。 

   聖書によれば、さらに神様と人類が、かつてエデンの園でもっていたような関係を取り戻し、 自然の調和を取り戻すことが、書かれています。 それは、まだ今は実現していませんが、やがて実現する「希望」です。 


  祝福をお祈りしています


 

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