4本目のキャンドルに灯火しました。アドベント第4週を迎えました。
クリスマス特別礼拝のみことばです。
「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私はこの民全体に与えられる。大きな喜びを告げ知らせます。今日きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)
ベツレヘムの野原で羊の夜番をしていた羊飼いたちに、突然、天の御使いが現れて
世界で初めて「あなたがたのための救い主がお生まれになりました」とクリスマスの喜びの知らせが届けられました。
1)神がご自身を低くしてこの世に来られた。 愛のしるし
この全世界とその中にあるすべてのものを創造された無限の神が私たちと全く同じ一人の小さな人間となってこの世に来てくださいました。
目に見えない無限の神が目に見える人間となるというのは、本当に本当に小さくなることです。
聖書は、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリピ2:6~8)神がご自身を低くしてこの世に来られたと教えています。
イエス様のの誕生は神の謙遜の現れです。ですからクリスマスの出来事にかかわる人々は、謙遜な人々と傲慢な人々がはっきりと対比させられています。キリストの誕生は、謙遜な人々のためであり、キリストを受け入れる人々も謙遜な人々です。
「自分を高くする人を神は低くし、自分を低くする人を神は高く上げられる」 (ルカ18:14)人となられた救い主イエスの親となるように選ばれたマリヤとヨセフも二人とも非常に謙遜な人々でした。 神の御子イエスは、汚い馬小屋でひそっりとお生まれになりました。、ベツレヘムの町の郊外で羊を見守っていた羊飼いたちは、もっとも身分の低い人々でしたユダヤ人の社会では彼らは軽蔑されていました。動物を相手にする仕事なので体がいつも汚れていました。しかし、彼らのところに最初に救い主の誕生の知らせが届けられたことは、救い主に関する聖書の預言に一致していました。
イザヤ書の61章1節「神である主の霊がわたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」
主イエス様の働きは、自分を正しい人間だと思い込んでいたユダヤ教の指導たちや自己満足していた裕福な人々のためではなく、つねに、貧しい人々、病気に苦しむ人々、世の中で疎外されていた人々などを追い求めておられました。従って、救い主誕生のニュースが最初に羊飼いたちに届けられたことは、神にとってはふさわしいこと、当然のことだったのです。
2)布にくるまれて飼い葉桶に寝ているみどりご 救いのしるし
当時のユダヤ人は、どんなに貧しくても、飼葉桶に生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせることはありませんでした。非常に高い地位につくべきお方がこのような哀れな状況の中で生まれてくださったことは、本当に不思議であり驚きです。
飼い葉桶に寝かせられたことのしるしは、そのことによってイエス様がどのようなお方であるのかを示していました。
当時の家畜小屋は天然の洞窟を掘って作られたものです。これらの洞穴にはもう一つの使い道がありました。お墓です。当時ユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置しました。イエス様が葬られたのもこのようなお墓でした。ですから、その入口に大きな石が置かれてあったのです。そして、ここでは赤ん坊のイエス様が布に包まれて天然の洞穴に寝かされていました。
当時の人々の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこれが喜ばしい知らせなのでしょうか。キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということを示していたからです。このことによって、いかなる罪人も赦されるという道が開かれたのです。
第2コリント8章9節「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
家畜小屋の飼葉桶の中で、牛や馬の糞のにおいの漂う中で、極限の貧しい状態で横たわっておられます。そして、神の子として人々を教え、人々の病気を癒し、いろいろな意味で囚われていた人々を自由にし、最後には、私たちの身代わりになって罪の罰を受けるために十字架で死刑囚として死んでくださった方、これが救い主として私たちに与えられたしるしでした。その目的は何だったのでしょうか。わたしたちがキリストの貧しさによって富む者となるためです。「私たちが富む者となる」という言葉は、裏を返せば、私たちはキリストに出会うまでは貧しい者だということを表しています。
クリスマス、私たちのために十字架にかかり命を捧げて、罪の赦し、救いの道を開くために、イエス様は来られました。飼い葉桶は、私たちの心に中にイエスが住んでくださることを象徴しています。罪の故に傷ついて汚れていても、貧しい私たちの心に主を迎え入れ、本当のクリスマスの喜びを受け取りますように祝福をお祈りしています。
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